令和5年5月17日(水)

 今日は、息子の遠足に同行した。

 起床して、娘を見送り、妻を見送り、息子と二人。YouTubeを見る息子。OSを入れ直したLINUX機にマイクラのMODを入れるため奮闘。何とか入れることはできたものの、macbook air とのマルチプレイが出来ず。調べると同じような症例はあるものの、対処法を調べている間に出発の時間となった。

 遠足は毎年恒例。一段と他の親御さんとの交流に消極的になっている自分に気づいた。だんだんどうでも良くなってきている。新米パパの時は、「交流しないといけないんじゃないか」と思って頑張っていたけれど。

 帰って妻が用意してくれたご飯を食べ、少し休んでたら息子がジュースを買いに行こうとおねだり。そういえばさっき約束してたっけ。そんでもってチャリンコで二人で近所の自販機へ。買って家に着いた時、「平日の休みっていいなあ」「人が少ないのが落ち着くんだな」と人疲れしている自分を再確認。

 息子とカービィをしているうちに歯医者の時間。1時間10分も治療してもらった。さすがに疲れた。帰って昼寝。ゴロゴロしていると午後5時からの打ち合わせの時間。

 ふとこれまでの人生を振り返ってみたくなる。忘れてることが多くなった。いっこうに生活は楽にならない。まあどうでもいいと思えるようになってきた。こんなもんだろう。できればもう一つ副業をしよう。とにかく稼ぐしかないのだ。

 22歳で精神科に入院させられ、24歳でやっと退院し、そこから通信制大学に行き、仕事に就き、彼女ができて転職。3度転職して結婚。その後も3度転職。子が2人。経済的に楽なわけがない。それどころか、その割によくやっている。ボロの中古だけど2階建ての大きな家を持ち、まあまあかっこいい車に乗り、妻の車のローンも払っている。本業の他に月5日程度アルバイトをしてなんとか生きている。割と良くやっている。見た目も悪くない。

 でももう47歳だ。

 こんなことをしている間に、少しずつ年を取って死んでいくのだ。母は75歳。父は73歳。もう5年もすればどちらかが死んでいるだろう。20歳を越えてからは、特に親子の思い出なんかないのが普通なんだろうけど、今日はふとそれが寂しいことのように思うこともあった。感傷的なんだろう。もう少し、なんか出来たらいいのかもと思うけれど。

 劇場版パトレーバーをまた観ている。10回以上観ている。TV版も最近初めてみて面白かった。後藤隊長の台詞がなんともいい。南雲さんとの関係も大人でいい。あんなんでいいんだなと思う。人間なんてどうせ死ぬのだから、少しぐらいいい思いをしたところでなんの得もないのだ。

 

ひきこもり再考

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ひきこもり再考


ひきこもりの問題点は結局のところ何なのだろうか。今さらだけど、もう一度確認してみる。

ある人の行為が、問題なのか問題でないのかを吟味する方法として、「その行為を人類全員がやったときどうなるか」を考えるというのがある。誰だったか忘れたが、哲学者の誰かが言っていた。

これを当てはめる。単純すぎるけど。

 

「人類全員がひきこもったらどうなるか」

答えは簡単すぎる。食料が尽きたとき、全員が死ぬ。

 ひきこもりは、人類の生存の観点からすると、適切な行動ではない。

 

ではなぜ、人は適切でない行動をとるのか。

 

https://www.mlit.go.jp/common/001067785.pdf

ヒューマンエラーの理論からすると、「適切ではない」と思える判断をする人自身は、「それが最善」もしくは「それしかない」と判断している。どういう時に判断を誤るのか。判断した人に、判断するに際して必要な情報が十分にない時に起こる。十分な情報がないが故に、判断を誤るのだ。

 

ひきこもりに当てはめる。「ひきこもる」という選択が誤った判断だとすると、なぜその選択をしたのだろうか。

一つ言えるのは、ひきこもる当人にとっては、「ひきこもる」という選択が最善であったということだ。

また、それを支える家族にとっても、家族がひきこもること、その状態を維持してあげることが、その時は、「最善」だと判断したのだ。自分の子供が仕事や学校で傷つき家から出られなくなった。その時に、守ってあげようと思うのが親心ではないだろうか。そしてそのこと自体が「誤っている」つまり、「親心や優しさが誤りだ」ということは、ないのではないだろうか。親心を示したこと自体が誤りなのではなく、そのほかの部分に、情報不足があったのではないだろうか。

 

簡単な例えで示す。自分の子供が転んで地面に頭を打ったとする。子供は意識を失いピクリともしない。現代人なら、そういう時に子供を動かしてはいけないと「知っている」。そういう情報を持っている。だが、その情報がなければ、親であるなら抱き起こして「大丈夫か?」と声を上げて体を揺するのではないだろうか。

 

上の例は、情報不足が子どもの命を奪ったのであって、「親心」が子どもの命を奪ったのではないことを示してはいないだろうか。

では、ひきこもりの初期に知っておくべき対処方法はなんだろうか。

www.mhlw.go.jp

少し古いパンフレットだが、十分まとまっているように思う。そして、精神科でインテークをしていると、パンフレットにあるようなことを情報として入手していて、お子さんに対して上手く対応している親御さんが増えているように思う。

 

だけど当然、それだけで全員が解決できるわけではない。

家族関係がもともと希薄、家族に傷つけられた、学校や会社でいじめ等に遭った。

発達の偏りが、現代社会と適合しない。

消えない恨み、悔しさ。

 

長期化する事例に対しては、また別の情報が必要となる。

その情報が必要なのは、当事者、親そして我々。

そしてどんな情報が必要なのだろうか。

 

支援方法、支援技術も大事だが、ミクロな視点だけではなく、マクロな視点でもう一度ひきこもりを考えてみたくなる。

 

社会学的に見た、社会構造の変遷と成立におけるひきこもりの位置付け。 

歴史学に見る、ひきこもりの類縁とその成立条件の洗い出し。

文化人類学的に見た、ひきこもりの類縁とその意味。

経済学的にみた、純粋な消費の一形態としてのひきこもり。

批判的意味はなく、冷静に客観的に現象として。肯定も否定もなく。

 

文明化された社会にのみ起こりうる現象であるならば、なぜ文明化された時にひきこもりが生まれたのか。高度に生産化され流通化されたから起こりえたのだとしたら、その現象は単なる「余裕」なのか。ひきこもり得る社会と言えるのか。だとしたら、それは豊かな社会である証拠なのか。ひきこもりの人が働くことは不要とさえ言えるのか。そして現代の日本は本当にそうなのか。

 

最初の基本的な位置付けとして、ひきこもりは人間の生存にとっては適切な行動とは言えない。ミクロ的にみて、やはりひきこもっている人・家族は苦しんでいる。

それをどうにかしたいというのが、この論考の端緒である。

ただ、ひきこもりを病理であるとするだけで事足りる問題ではないと思う。

コレラが蔓延した社会において、不衛生な下水処理が根本的な問題であり、行政的処置において改善したように。コレラが社会に蔓延する病理であるとするならば、コレラの治療に専念するだけでなく、根本的原因を探るように。

ひきこもりが日本社会に蔓延しているのが現実であるのならば、根本的な原因を探ることが当然優先されることではないだろうか。

コレラの患者を隔離する業者がいたのではないだろうか。無理やり連れて行って幽閉したことはなかっただろうか。それが最善と信じていたのかもしれない。それはそれでしょうがないかもしれない。良いこととか悪いこととかを超越している。それは時が経たから言えるのかもしれないが。

ただ、そういう行為がなくなったのも、根本原因を探り当てられたからだろう。

ひきこもりが生まれる根本的な原因をみんなで探ろう。

僕が言いたいのは、それだけ。

 

 

オープンダイアログ

話題だ。画期的だ。どこが画期的かと言うと、これまで統合失調症の患者の話をまともに聞こうとする医師は少なかったが、「真面目に聞こう」「関係者みんなで聞けば、言いたいことがわかる」ということを発見したからだ。

ちなみに患者の話を聞こうとしてきた医師はいる。また看護師やケースワーカーもいる。でもなんとなくうやむやになっていた。

また有名なところではユングは、患者の話の中に了解可能な部分が多く含まれることを発見し、研究材料としていた。

認知機能がダメージを受け、無意識の扉も開いてしまっている患者の言葉を理解することは非常に困難だ。患者の発する言葉を理解するには、様々な分野の知識も求められる。洞察力や推理力も求められる。一人で向き合うのでなく、大勢で聞けばそれだけ理解しやすくなるのも単純明快なことだ。

発展を願う。一時的な盛り上がりで終わらないために何ができるだろうか。

 

 

オープンダイアローグ

オープンダイアローグ

 
オープンダイアローグとは何か

オープンダイアローグとは何か

 
N:ナラティヴとケア 第8号──オープンダイアローグの実践

N:ナラティヴとケア 第8号──オープンダイアローグの実践

 
精神療法第43巻第3号―オープンダイアローグ

精神療法第43巻第3号―オープンダイアローグ

 

 

 

精神科関連の情報サイト

 

日本には、精神科関連の情報が集約されたようなサイトがない。

ユーザーは、個々に情報を探さないといけない。

信頼できる情報かもわからない。

 

イギリスの例:

www.mind.org.uk

 

よくまとまっている。また、サイトの情報が信頼できるかどうか、国民保健サービス(NHS)が、保証マークをつけている。

日本にも導入したい。

まずは、まとまったサイトが必要。コンセンサスが得られないだろうから、大きな協会・学会は無理だろう。製薬会社にもしばられない、民間の団体がやるしかないだろうが、信頼してもらえるだろうか。

 

www.rcpsych.ac.uk

王立精神科医学専門学校のサイト。日本語訳も充実している。

これでいいかも。

 

 

 

 

精神的危機への介入について

日本では、「3障害」として身体・知的・精神障害がひとまとめにされている。

精神障害の危機状況は、他の障害の方とは違う。

また精神障害といっても、統合失調症、双極性感情症、境界例うつ病では起こりうる危機的状況や対処方法が大きく異なる。

統合失調症への危機対応チーム、自殺未遂への対応チーム境界例部門とか、細分化できれば強い。

受療に関する支援を行うチーム、経済問題への対応をするチーム、法律問題のチーム等行う支援も分野ごとに分けられればいい。

それだけ人材が豊富になればいい。

一人の人が何でもやらなければいけないのが日本の現状。ワーカー不足。