ひきこもり再考

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ひきこもり再考


ひきこもりの問題点は結局のところ何なのだろうか。今さらだけど、もう一度確認してみる。

ある人の行為が、問題なのか問題でないのかを吟味する方法として、「その行為を人類全員がやったときどうなるか」を考えるというのがある。誰だったか忘れたが、哲学者の誰かが言っていた。

これを当てはめる。単純すぎるけど。

 

「人類全員がひきこもったらどうなるか」

答えは簡単すぎる。食料が尽きたとき、全員が死ぬ。

 ひきこもりは、人類の生存の観点からすると、適切な行動ではない。

 

ではなぜ、人は適切でない行動をとるのか。

 

https://www.mlit.go.jp/common/001067785.pdf

ヒューマンエラーの理論からすると、「適切ではない」と思える判断をする人自身は、「それが最善」もしくは「それしかない」と判断している。どういう時に判断を誤るのか。判断した人に、判断するに際して必要な情報が十分にない時に起こる。十分な情報がないが故に、判断を誤るのだ。

 

ひきこもりに当てはめる。「ひきこもる」という選択が誤った判断だとすると、なぜその選択をしたのだろうか。

一つ言えるのは、ひきこもる当人にとっては、「ひきこもる」という選択が最善であったということだ。

また、それを支える家族にとっても、家族がひきこもること、その状態を維持してあげることが、その時は、「最善」だと判断したのだ。自分の子供が仕事や学校で傷つき家から出られなくなった。その時に、守ってあげようと思うのが親心ではないだろうか。そしてそのこと自体が「誤っている」つまり、「親心や優しさが誤りだ」ということは、ないのではないだろうか。親心を示したこと自体が誤りなのではなく、そのほかの部分に、情報不足があったのではないだろうか。

 

簡単な例えで示す。自分の子供が転んで地面に頭を打ったとする。子供は意識を失いピクリともしない。現代人なら、そういう時に子供を動かしてはいけないと「知っている」。そういう情報を持っている。だが、その情報がなければ、親であるなら抱き起こして「大丈夫か?」と声を上げて体を揺するのではないだろうか。

 

上の例は、情報不足が子どもの命を奪ったのであって、「親心」が子どもの命を奪ったのではないことを示してはいないだろうか。

では、ひきこもりの初期に知っておくべき対処方法はなんだろうか。

www.mhlw.go.jp

少し古いパンフレットだが、十分まとまっているように思う。そして、精神科でインテークをしていると、パンフレットにあるようなことを情報として入手していて、お子さんに対して上手く対応している親御さんが増えているように思う。

 

だけど当然、それだけで全員が解決できるわけではない。

家族関係がもともと希薄、家族に傷つけられた、学校や会社でいじめ等に遭った。

発達の偏りが、現代社会と適合しない。

消えない恨み、悔しさ。

 

長期化する事例に対しては、また別の情報が必要となる。

その情報が必要なのは、当事者、親そして我々。

そしてどんな情報が必要なのだろうか。

 

支援方法、支援技術も大事だが、ミクロな視点だけではなく、マクロな視点でもう一度ひきこもりを考えてみたくなる。

 

社会学的に見た、社会構造の変遷と成立におけるひきこもりの位置付け。 

歴史学に見る、ひきこもりの類縁とその成立条件の洗い出し。

文化人類学的に見た、ひきこもりの類縁とその意味。

経済学的にみた、純粋な消費の一形態としてのひきこもり。

批判的意味はなく、冷静に客観的に現象として。肯定も否定もなく。

 

文明化された社会にのみ起こりうる現象であるならば、なぜ文明化された時にひきこもりが生まれたのか。高度に生産化され流通化されたから起こりえたのだとしたら、その現象は単なる「余裕」なのか。ひきこもり得る社会と言えるのか。だとしたら、それは豊かな社会である証拠なのか。ひきこもりの人が働くことは不要とさえ言えるのか。そして現代の日本は本当にそうなのか。

 

最初の基本的な位置付けとして、ひきこもりは人間の生存にとっては適切な行動とは言えない。ミクロ的にみて、やはりひきこもっている人・家族は苦しんでいる。

それをどうにかしたいというのが、この論考の端緒である。

ただ、ひきこもりを病理であるとするだけで事足りる問題ではないと思う。

コレラが蔓延した社会において、不衛生な下水処理が根本的な問題であり、行政的処置において改善したように。コレラが社会に蔓延する病理であるとするならば、コレラの治療に専念するだけでなく、根本的原因を探るように。

ひきこもりが日本社会に蔓延しているのが現実であるのならば、根本的な原因を探ることが当然優先されることではないだろうか。

コレラの患者を隔離する業者がいたのではないだろうか。無理やり連れて行って幽閉したことはなかっただろうか。それが最善と信じていたのかもしれない。それはそれでしょうがないかもしれない。良いこととか悪いこととかを超越している。それは時が経たから言えるのかもしれないが。

ただ、そういう行為がなくなったのも、根本原因を探り当てられたからだろう。

ひきこもりが生まれる根本的な原因をみんなで探ろう。

僕が言いたいのは、それだけ。